母と娘、芸術とポルノ。『ヴィオレッタ』
今回は、フランス映画をご紹介します。
タイトルは、『ヴィオレッタ』。
これは、主人公である、美しい少女の名前です。
映像そのものも非常に美しいのですが、その美しさには、同時に、背徳的な影や、様々な痛々しさが同居している、そんな作品でした。
『ヴィオレッタ/My Little Princess』のあらすじ
ヴィオレッタは、12歳の美しい少女だ。
芸術家である母はほとんど家に帰らず、普段は、曽祖母とともに、墓地の見える安アパートで暮らしている。
母ともっと一緒にいたい。
そう思うヴィオレッタは、ある日、母のスタジオに招かれ、写真のモデルをすることになる。
ヴィオレッタには、被写体としての才能があった。
初めのうちは、母との時間や、刺激的な撮影を楽しむヴィオレッタだったが、母の要求がエスカレートしていくとともに、次第に、幼い心が壊れていく——。
「愛しているわ、ヴィオレッタ――!!」
レビュー
美しい映画
本作は、まず、その美しさに目を奪われると思います。
むせ返るような死の匂いを感じさせる、母のスタジオの美術をはじめとする背景美術。
ヴィオレッタや、彼女の母、アンナが着る、ハイファッションな衣装の数々。
そして何より、ヴィオレッタを演じる、アナマリア・ヴァルドロメイの、少女ならではの可憐さと、大人びた視線とのギャップが生み出す背徳的な美しさ。
芸術とポルノ、その狭間を描く本作ならではの重層的な美しさこそが、本作の魅力の大部分を占めています。
特に、衣装の美しさは、ファッション好きな方には、たまらないものがあるのではないでしょうか。
ヴィオレッタやアンナの衣装を見ているだけでも、ファッションショーを見ているかのような楽しさがあります。
さらに、そのファッションの変遷によって、登場人物の経済状況や、心境の変化、周囲との距離感などをさり気なく伝えるあたり、映画的にも上手い見せ方ですね。
しかし、本作で最も美しいのは、やはり、主人公であるヴィオレッタです。
本作におけるヴィオレッタの背徳的な美しさは、『ロリータ』のドロレスや、『レオン』のマチルダに通じるものがあります。
大人と子供の狭間、思春期だけにある不安定で危うげな美しさ。
本作では、その美しさを存分に堪能することができます。
痛々しい人々
さて、そんな美しいファッションや美術に彩られた本作ですが、その中で描かれる人々は、皆が皆、どこかしら痛々しい面を持っています。
主人公の母、アンナは「自分は周りとは違う」という強迫観念にも似た信念を貫くあまり、どんどん周囲から浮いていき、また、その自らの在り方をヴィオレッタにも強要していき、それが母と娘との溝になっていくわけです。
もっとも、なぜ彼女がそうなってしまったのかにも、呪いのごとき理由があるわけですが、子供であるヴィオレッタには、そんなもの理解できるはずもなく、そしてまた、アンナ自身も、それを正しくヴィオレッタへ伝えられるほど【大人】ではありません。
作中、彼女は数少ないヴィオレッタの真の庇護者然として登場していますが、その実、彼女は宗教にすがるばかりで、現実を見ようとはしていません。そして、その彼女の態度こそが、彼女と家族(本作には登場しませんが、空白であるがゆえに、余計とその存在が重くのしかかってくる、彼女の娘や夫も含みます)との間に、アンナほど分かりやすいわけではなくとも、確かに存在する溝を生んでいるのです(これにも理由はあるのですが……)。
そして、そんな家族の痛々しさと溝を一身に引き受けることになるのが、主人公、ヴィオレッタです。
彼女は、母の都合に振り回され、ファッションや行動、言動の全てを徹底的に変えられてしまい、次第に周囲から孤立していき、そのことにより、心の均衡までも崩していくことになるのです。
母と娘
本作の大きなテーマの一つが、これでしょう。
本作の母、アンナは、はっきりと不完全な人物です。そして、心の奥深くでは自らもそのことを自覚しており、そして、その上で、ヴィオレッタという娘の存在が、彼女を完璧にしてくれる、そう信じているのです。
だから、彼女はヴィオレッタを自分の一部のように扱います。それは、ある意味では愛なのですが、しかし、その愛とは、親が子を愛するという以上に、自己愛の発露だと私は感じました。
しかし、当然ながら、ヴィオレッタが求めているのは、親としての愛なのです。
親の愛を求めるヴィオレッタと、自己愛としてしか娘を愛せないアンナ。
この二人のすれ違いは、観ていて歯痒く、痛々しく、そして、悲劇的です。
芸術とポルノ
本作のもう一つのテーマが、【芸術とポルノ】です。
どこまでが芸術で、どこからがポルノなのか。その線引きは非常に難しいです。
事実として、本作で登場する様々な写真は、どれもこれも芸術的で美しいものであると同時に、ポルノとしても受け取れるものばかりです。
ヴィオレッタはこの狭間で苦しむことになるわけですが、恐らく、アンナは純粋に芸術として撮っていたはずですし、最後の最後までそう信じていたのでしょう。
しかしながら、それが純粋に芸術として評価されたのか、それとも、ポルノとして消費されたのか。
それは、鑑賞者次第であるため、作者にはコントロールできないものでもあります。
芸術とそれ以外、あるいは、芸術でなくとも、その表現がポルノ的であるか否かは、作者と鑑賞者それぞれの認識でのみ判断されるもの。そして、作品が作者の意図通りに判断されるということは、未来永劫あり得ません。
だからこそ、今日でも、【表現の自由展】や、例の【献血ポスター】のような問題が後を絶たないのです。
実話である
さて、ここまでヴィオレッタの魅力や描かれているテーマなどを私なりに書き連ねてきたのですが、最後に最も大切なことを言っておかねばなりません。
この話しは、監督本人の実話なのです。
もちろん、脚色は多々あるでしょうし、どこまでが真実で、どこからが脚色なのかはわかりません。
しかし監督であるエヴァ・イオネスコは、実際に、母であるイリナ・イオネスコの被写体として、背徳的で芸術的、そして、官能的でポルノ的な写真を数多く撮られているのです。
それらの写真の中には、劇中では最後までヴィオレッタが拒み続けた、ヌードの写真もあります。
つまり、恐らく現実は、もっと踏み込んだ何某かの事態もあったのだろうと推測できます。
しかし、本作でそれは描かれていません。
真実は彼女自身にしか分かりませんが、恐らく、そこに踏み込むことは、彼女自身のトラウマを、主演のアナマリアにも強いることになるため、それだけは絶対にしたくなかったのではないでしょうか。
しかし、それでもなお、自身のことを映画にしなければならなかった。
きっと、本作は、彼女自身のトラウマに決着をつける、セルフカウンセリング的な意味もあったのだと私は感じています。
事実、彼女はこれだけの名作を作り上げる手腕を持ちながら、本作以外の映画作品を作ってはいないのです。
ちなみに、彼女は本作が公開された後、自らの母を「私の子供時代を奪った」と訴えており、裁判にて勝訴を勝ち取っています。それは、彼女の人生の一つのけじめであり、母との決別だったのでしょう。
そして、だからこそ、その後に作られた本作はあのシーンで終わるのです。
まとめ
というわけで、『ヴィオレッタ』のご紹介でした。
様々な見方ができ、そして、色々考えさせられる本作。
恐らく、くらってしまう人は徹底的にくらってしまう作品です。
とはいえ、監督本人にとってはトラウマであろう出来事を、ここまで美しい作品へ昇華していることは、奇跡としか言いようがありません。
そして、この世のものとは思えないほどの美しさを持つ少女、アナマリア・ヴァルトロメイの、この時期にしかない、危うげな美しさをしっかりと切り取っているという意味でも、非常に意味のある作品です。
個人的には、心に残る一作となりました。
※今回ご紹介した『ヴィオレッタ』は、2019/10/25現在、アマゾンプライムにて無料配信中です。