映画史を変えた一本『パラサイト/半地下の家族』(ネタバレパートあり)
どうも、とりふぁです!
今年もネタバレありで一本紹介してみようと考えていた矢先、先日、全ての映画好きの故郷とも言える番組、金曜ロードショーで『パラサイト/半地下の家族』がノーカット放送されており、「これだ!!」と思い立ちました(笑)
といっても、私自身はNetflixで試聴したんですが(^◇^;)
もちろん、前半はいつも通りのネタバレなしなので、未見の方も安心してお読み下さい(そして、観賞後、気が向いたら後半までお読み頂けると幸いです)。
ではでは、いってみましょう!!
『パラサイト/半地下の家族』のあらすじ
ソウルの片隅、低所得者達が這いつくばるようにして暮らす半地下に、キム一家は住んでいた。
キム家は、元運転手のギテク、元家政婦のチュンスク、大学受験を何度も失敗しているギウ、そして、デザイナー志望だったギジョンの4人で暮らしていたが、現在は、4人ともが失業しており、低賃金の内職をこなしながら、細々と、しかし、たくましく生きている。
そんな折、ギウの下へと、彼の友人であり、名門大学に通うミニョクから、とある富豪の一人娘、ダヘの家庭教師を代わって欲しいとの提案があった。
乗り気はしなかったものの、高額な報酬を得る千載一遇のチャンスでもあると考えたギウは、その提案を受けることにする。
紆余曲折あったものの、家庭教師としての初日を無事に乗り切り、ダヘとその母に気に入られたギウは、そこで、さらに報酬を得るための、とある【計画】を思いつく——。
「リスペクト!!」
レビュー
ついに映画界のトップへと躍り出た韓国映画界の至宝
本作を語る上で、絶対に外せないことは、本作が第92回アカデミー賞にて、作品賞(つまるところ、事実上の最優秀賞)を含む4部門の受賞を果たしたということです。
アカデミー賞といえば、数ある映画賞の中でも間違いなくトップの栄冠でありながら、しかし、最も保守的な賞レースのひとつでもあります(誤解を恐れずに言えば、アメリカ人によるアメリカ人のための映画賞と言うこともできます)。
そんな中で、純韓国映画である本作が、その最優秀賞に当たる作品賞を受賞したということは、韓国映画史上、いえ、アジア映画史上、いえいえ、【世界映画史上でも初の快挙】であり、それはまさに、【歴史が動いた瞬間】と言って過言ではありません。
それほどまでに、アカデミー賞作品賞を非英語圏の作品、まして、アジアの作品が受賞するということは、異例中の異例というか、もはやあり得ないことだったのです(もちろん、非英語圏の作品が作品賞を獲ったということ自体、史上初のことです)。
これにより、アカデミー賞自体の価値が大きく変わり、真に【世界でNo. 1の映画を決める賞】になったのです。
この流れは、ここ数年でじわりじわりと来てはいましたが、その最後の扉をブチ破り、歴史的快挙を持って映画界の歴史までも変えてしまったのが、本作なのです。
当ブログでも、折に触れて韓国映画のクオリティの高さは語ってきましたが、それが行き着くところまで行き着いた結果ですね。
もちろんそれは、一朝一夕に成し遂げられたものではありません。
1999年の『シュリ』、2000年の『JSA』辺りから注目を浴び始め、そして、2003年の『オールド・ボーイ』で世界の映画通を唸らせた韓国映画界は、それに驕ることなく、地道に作品のクオリティを上げ続け、一歩一歩着実に実績を積み上げていったのです。
一映画ファンとしては、そのセンスと胆力に、拍手喝采を送らずにはいられません。
↑ 韓国映画の実力を世に知らしめた3本です。特に『オールド・ボーイ』の衝撃は凄かったですね。
人間の闇を映し出す、エグみのエンターテインメント
個人的に、韓国映画の一番の魅力は何かと問われれば、人間の持つエグさや複雑さ、人間の闇とも言えるものの最も深いところを、極めて俗物的に表現してみせるところだと思います。
例えば、先に挙げた『オールド・ボーイ』は、とある男の極めてグロテスクな情念が、復讐という形を持って主人公に襲いかかってくるのですが、その復讐の方法というのが、「そんなの誰が思いつくんだ」というレベルの、これまた非常にグロテスクなものであるということが、最後の最後に判明します。
そして、その復讐がいかに主人公を追い詰め、狂わせたかを、圧倒的に分かりやすいビジュアルを持って表現する、つまりは、しっかりと【見せる】のです。
ゆえに、非常にエグいのですが、そのエグさこそが、人間の最も深みにある、なんとも表現し難いものを、なによりも如実に表現しています。
そう、韓国映画は、とにかく、常軌を逸しているレベルでエグいのです(もちろん、そうではない作品もたくさんあります)。
そのため、韓国映画は、ハードパンチャーが打つボディブローのように、腹にドシンと来る衝撃を観るものに与えてくれます。
映画における衝撃度の高さは、それがそのまま面白さに直結しています。
要するに、韓国映画はこの上なくエグく、しかし、それがゆえに、この上なく面白いのです。
エグみのエンターテインメントと言っても良いかもしれませんね(笑)
朝鮮民族の心に深く刻まれた【恨の文化】
ではなぜ、韓国映画には、そのような、人間の闇を描くようなエグい作品が多いのでしょう。
それは恐らく、朝鮮半島に古くから伝わる【恨(ハン)】の影響が大きいのだと私は思います。
朝鮮半島は、その歴史の初期の頃から、常に他民族(もちろん、そこには日本人も含まれます)からの侵略に晒されてきた土地です。
ゆえに、そこに住む朝鮮民族の多くの人々は、その歴史のほとんどにおいて、何者かに服従する生活を強いられてきました。
さらには、韓国に深く根付いている儒教の基本理念、【目上の者を敬う】という考え方が、そうした背景と長い歴史の中でねじ曲がり、【目上の者は、目下の者をどのように扱っても構わない】、【目下の者は、目上の者からの苛烈な扱いを甘んじて受け入れなければならない】という解釈へと至りました。
そんな中で、目下の者達の中には、【目上の者達を恨む心】や、いつかは自分が目上側になってみたいという【妬みの感情】や、しかし、どうしたって現状を変えることなんて出来やしない、自分は自分の境遇を受け入れるしかないという【無常感】などが折り重なり、極めて複雑かつグロテスクな【感情の澱】のようなものが醸成されていきました。
それを、朝鮮半島では、【恨】と呼び、そして自らの文化を【恨の文化】とまで呼ぶのです(こういったことを念頭に置いておくと、韓国や北朝鮮について、我々日本人が理解し難いと思うような様々なことが、多少は分かりやすくなると思います)。
そうした【恨】やその文化を映像に焼きつけたものこそが、韓国映画であり、それがゆえに、韓国映画はエグいのだろうと、私はそう思います。
ポン・ジュノ節炸裂
さて、前段が終わったので、いよいよ本作についてご紹介していこうと思います。
まずは、何はともあれ、本作もポン・ジュノ節炸裂の語り口が絶妙ですね。
ポン・ジュノ作品で私が観たことがあるものは、『グエムル/漢江の怪物』と、当ブログでもご紹介した『殺人の追憶』、そして今回ご紹介している『パラサイト/半地下の家族』の3本なのですが、この3作に共通しているのは、【基本的にはオフビートなコメディのように進みつつ、しかし、最後はとんでもない絶望へ足を踏み入れていく】、あるいは、【起こっている事態の悲惨さとは裏腹に、牧歌的な雰囲気で進んでいく】ということだと思います。
↑ ポン・ジュノ監督作品。どちらもオススメです
要するに、作品内で描かれる感情や状況の落差が非常に極端なため、落ち着く暇がないというか、いい意味で、【どういう感情で観ればいいかわらない】のです。
しかも、ラストへ向かえば向かうほど、その感情のうねりは激しくなり、最終的には、【全く寄る方のない場所へ置き去りにされる感覚】すらあります。
鑑賞者をひたすら笑わせ、あるいはワクワクさせるうちに、気がつけば全く予想だにしなかった場所へと連れ去ってしまう。
それが、ポン・ジュノ監督の得意とする語り口、つまりは、ポン・ジュノ節だと思います。
本作においてもその語り口は健在で、前半で展開するテンポのいい、ケイパーモノ(チーム犯罪映画)の様な展開や、オフビートかつ軽妙な会話劇の妙を存分に楽しんでいると、その裏に潜んでいた、【ある事実】や、そこからの展開にガツンと頭を殴られ、そして、ラストの余韻に困惑させられることになります。
そしてその【困惑させられること】こそが作品の味わい深さとなり、忘れられない映画体験として「映画って面白いなぁ……!」としみじみ感じることになるのです。
テーマをビジュアルで見せる、映画的語り口
そんな本作ですが、テーマはずばり、格差社会と資本主義、そして、そこから生じる【恨】だと私は感じました。
上流階級の家庭に、文字通り、寄生虫のように入り込んでいく、主人公達下流の家族の物語というだけでも、そのテーマを非常にわかりやすく描いているのですが、本作ではさらにそれを、即物的にビジュアルで描いてみせます。
分かりやすいところでは、主人公一家の住む家と、上流階級一家の住む家の様子や、どこにあるかという位置関係などが挙げられますし、細かいところで言えば、互いの食事の仕方というか、食事に対する姿勢なんていうところにも表れています。
そして、【恨】については……これは観てのお楽しみですね(ネタバレパートでは触れています)。
とにかく、そうした描写を積み重ねることで、極めてエンターテインメント的な分かりやすく面白い作品でありながら、誰もが社会派なメッセージを受け取る事ができるのです。
テーマや物語を、セリフやモノローグに頼らず、ビジュアルで見せる、展開させるというのは、映画において絶対に必要な語り口なのですが、本作におけるその徹底ぶりは本当に見事で、細部に至るまでビジュアルで語る、極めて映画的な語り口に溢れています。
まとめ
というわけで、『パラサイト/半地下の家族』のご紹介でした!
とにかく後半のツイストが肝な作品であるため、そこに触れずに書くということで、レビューとしては一般的なものになってしまったかなぁとも思うわけですが、しかしながら、例えば【恨(ハン)】の概念については、多少なりとも韓国文化について学んだ事がないと知らないことでしょうし、それでいて、この概念を知っているか否かで、本作の味わいも理解度も全く変わってくると思いますので、そこについてはなかなかよく書けたかな? と思います(笑)
未見の方や、また観返してみようという方は、是非、韓国の成り立ちと、そこから生ずる【恨】について思いを巡らせながら観ていただければと思います。
しかしながら、そう考えてみると、これはつまり、【極めて韓国的な作品がアカデミー作品賞を獲った】ということで、英語圏以外の作品が、しかも、【その国らしさを全面に出した作品でアカデミー賞レースのトップに立てるのだ】という、各国の映画界に極めて重大な気付きを与えたことでしょう。
繰り返しになりますが、本作は、【歴史を動かした作品】として、後世まで、延々と語り継がれる作品になることは間違いありません。
映画が好きな方はもちろん、普段はあまり映画を観ないという方も、歴史が動く瞬間に立ち会えたという意味で、一度は観ておいて損はないと思います。
何より、一本のエンターテインメント作品として、非常に面白いですから!!
(下へスクロールして頂くと、ネタバレパートになります。良ければこちらもどうぞ!)
最強の映画メディア、『MIHOシネマ』さんによる、詳しいあらすじと紹介記事はこちら!↓
ネタバレパート
さぁ、ここからは、うちのブログでは年に1度(数回?)しかないネタバレパートでございます!!
「ネタバレ気にしないよ〜!」という方はこのままお進み頂いても構いませんが、しかし、人生、【知らない状態に戻すことはできない】ものですので、個人的には【知らずにする体験】というのは、それがたとえどんなものであっても、人生に1度きりしかないチャンスで、何にも変え難い貴重な経験だと思います(だからこそ、当ブログは極力ネタバレを避けているわけです)ので、できれば、観賞後にお戻り頂ければ……と強く思います。
それでも読むという方、また、既に本作を鑑賞した方は、私が本作をどう観たのかと言ったことを書き記していきますので、お楽しみ頂ければと思います。
では、いきます!!
・タイトルに込められた真の意味
私が本作を観て、まず真っ先に思い当たったのは、タイトルに隠された真の意味についてでした。
もっとも、真の意味と言いつつ、ポン・ジュノ監督がそれを意図していたかどうかは分かりませんが(汗)
本作の邦題は、『パラサイト/半地下の家族』であり、海外では『Parasite』、そして、現代は『기생충』となっています。
このハングルは「キ・セン・チュン」と読み、漢字では「寄生虫」を当てる言葉です。
もちろん、「パラサイト(parasite)」も「寄生虫」を意味する言葉なので、各国のタイトルは、基本的には同じということになりますね。
そんなタイトルの意味ですが、それはもちろん、【上流階級の家族に寄生する主人公一家】を表しているわけですが、しかし、実際のところは、上流階級であるパク一家もまた、主人公一家の労働力に頼らなければ生きられず、もっと言えば、地下に住むグンセ(「リスペクト!!」の彼です笑)の働きが無ければ、電気一つつけられないわけで、これはつまり、【上流階級の者もまた、下流階級の者に寄生している】ということを表しています。
そして、三者がそのようにして暮らしているのは、言うまでもなく、【資本主義】という大きなシステムに寄生しているからこそです。
要するに、【資本主義】の社会に住んでいる以上、誰もが誰か(あるいは何か)に寄生して生きているというのは争いようのない真実なわけで、つまりは、本作のタイトルが意味しているのは、主人公でもなく、グンセでもなく、パク一家でもなく、この社会に住む我々全員のことなのです。
その上で、本作で描かれる上流階級の者と下流階級の者との違いが何かと言えば、それはただ一つ。
【自らが寄生虫であるということに気付いているか否か】です。
下流の者は、上流の者に寄生しているという事実を分かっているからこそ、上流の者に【リスペクト(敬意)】を払うことができますが、しかし、上流の者は下流の者に寄生しているという自覚がありません。
ラストの惨劇は、それゆえ(パク一家は主人公一家にもグンセ夫妻にも敬意を払わなかった。主人公一家はグンセ夫妻に敬意を払わなかったということ)に起こってしまったのです。
観た者なら皆が真似したくなるあの名台詞、「リスペクト!!」こそ、惨劇回避に必要な要素だったのだと、私は思います。
・地下より湧き上がる恨
本作のレビューをいくつか読んだのですが、その中で、「ソン・ガンホ演じる父が、最後になぜあんなことをしたのか、その理由が弱い」というものを見かけました。
しかし、私個人としては、そうは思いません。
それまでに何度か、父、ギテクが本当は敬意を払われたがっているような描写(子供達への期待は、不甲斐ない自分への裏返しですし、主人公一家の勝利を象徴する深夜の食事シーンでは、母の失礼な態度に怒っているフリをしてみせていますが、アレは、実際に怒っていたのだと思います。その他にも、いくつかありますね)は積み重ねられていましたし、何より、虐げられし者達が抱える【恨】の概念を知っていれば、あのシーンは、グンセの持つ【恨】が、父へと乗り移ったのだという解釈ができるからです。
グンセは、心の底からパク一家を「リスペクト!!」し、そして、自らの妻を殺された恨みはもちろんのこと、その敬愛するパク一家の家に入り込んだ寄生虫たる主人公一家を排除しなければならないという使命感にも突き動かされ、最後の凶行に走るわけですが、しかし、パク一家の家長たるドンイクは、そのグンセの気持ちを理解しようともせず(最も、グンセの存在を知らないわけですから、そもそも理解しようがないわけですが……)、自分達だけが助かろうとし、のみならず、グンセをただただ汚物のように扱いました。
そしてそれを見たギテクは、グンセよりはまだマシな半地下の者ながらも、やはり同じく下流の者、寄生虫としての自覚を持っていたため、そのドンイクの極めて利己的かつ敬意を欠いた態度に、己の中の【恨】と、グンセの【恨】とが混ざり合い、純粋なる【恨の怪物】となってドンイクを襲ったわけです。
そうして彼はグンセと混ざり合い、半地下の者から、地下の者へと成り下がってしまった。
私は、本作のラストをその様に受け取りました。
下の者は上の者を敬い、そしてまた、【上の者も下の者を敬う】こと。
そうして欲しいという思いこそが、【恨】だと私は考えています。
その思いが実現しない限り、【恨】がなくなることはなく、そして、あの惨劇は何度でも繰り返されることでしょうし、ギウの妄想が現実になるかどうかも、きっとそこにかかっています。
(ちなみに、盲目的にドンイクを信奉するグンセと、そのグンセを顧みようともしないドンイクという構造は、そのまま、トランプとトランプ支持者に当てはまる様にも思えます。偶然とは思いますが、こういった部分も、アカデミー賞においてはプラスになったのかもしれませんね)
以上が私が感じた本作の、特に後半についての解釈です。
他にも解釈は色々あるでしょうし、これが正解というものもありません。
ただ、こういう見方をしてみると、本作の味わいもまた変わってくるのかなぁと思います。
もしよければ、コメントであなたの解釈や感想をお聞かせください!