観た人のお楽しみ。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』をネタバレありで語り尽くす。
どうも、とりふぁです。
当初、『シンエヴァ』の記事はいつも通り、ネタバレなしパートとネタバレありパートに分けた上で一本の記事にする予定だったのですが、Twitterでアンケートを取ったところ【(記事自体を)分けて欲しい】という意見ばかりだったので、今回は、当ブログでは異例の同じ映画を2つの記事に分ける形式での発表となりました(今後はこの形式をふやしてもいいかも……?)。
というわけで、ネタバレ全開(と言っても、あらすじをダーーーっと書くのは性に合わないので、物語について直接的な語り方をするわけではないです)で、私が『シンエヴァ』をどう観たかについて、脈絡なくつらつらと書いていきますので、本編をご覧になった方は、「そうそう!」とか、「いや、それは違うだろ」とか、重い思いに楽しんで頂ければと思います。
では、ネタバレ回、スタートです!
エヴァが置き去りにしたものを描くということ
本作でまず思ったことは、今回は、【エヴァが置き去りにしてきたものを正面から描いている】ということでした。
それは何かと言えば、例えば、市政の人々の暮らしの様子であったり、エヴァのメインテーマであったにも関わらず、今の今までそれがしっかりと描かれていなかった、本当の意味での他者との交流であったりです。
今までのエヴァは、世界崩壊の危機と戦うという壮大なスケールの物語の割に、世界観や登場人物については、非常に限定的で、世界がしっちゃかめっちゃかになっていようが、そこで暮らす人々がどのようにして生活し、そして死んでいったのかといったようなことはほとんど描かれてきていませんでした。
故に、ミサトがいかにシンジへ「あなたが守った街よ」と言おうが、シンジが守ったもの、シンジが守らなければならないものは、非常に漠然としていました。
言うなれば、今までのエヴァは、関係者だけの、閉じた世界の物語だったのです。
しかし、本作のAパートにおいて、その閉じられた世界の外側が描かれ、さらに、シンジやアヤナミは、その中での生活を経験するのです。
他のアニメではごくごく当たり前とも思えるこのシークエンスですが、今までそれが存在しなかったエヴァにおいて、このシークエンスは非常に重要な意味を持ちます。
内的世界で生きてきたシンジやアヤナミが、それぞれに真の外的世界と対峙し、おっかなびっくりながら、外の人々との交流を交わす。
これにより、アヤナミは生きる喜びを知り、シンジは、守るべきものを知ります。
月並みな表現ですが、【人は一人では生きてはいけない】のです。
そして、人々との交流を通じ、ヤマアラシのジレンマを超えたシンジだからこそ、最終局面において、ゲンドウを初めとする己の大切な人々と真っ正面から対峙し、それぞれの生き方を肯定し、癒すことができたのでしょう。
つまり、あの、なんてことはない第三村でのささやかな生活がなければ、本作で描かれたあの素晴らしき結末を迎えることは出来なかったということです。
エヴァという作品が、ずっと置き去りにしてきたものこそ、エヴァという作品を終わらせるには欠かせないものだったのですね。
親子の物語
また、本作は【親子の物語】という部分も非常に強く描かれていたと思います。
それはもちろん、碇ゲンドウと碇シンジの物語というのもありますし、葛城ミサトと、加持リョウジ(少年)の物語でもありますが、もっともっと普遍的な、全ての家族の物語だったかなと思います。
例えば、Aパートで描かれる、トウジ、ヒカリ夫婦と、彼らの子供、ツバメの描写だったり、その他の第三村に暮らす他の家族の描写もありました。
あるいは、ヒカリとアヤナミの関係も、疑似的な親子として、子育てというものを強く意識させられる描写でした。
思えば、エヴァという物語の骨格は、絶対的な父の命令により、偉大な母の胎内に守られながら戦うという物語です。
要するに、親が子離れできず、子もまた親離れできていない物語なんですね。
しかし、そんな物語であるにも関わらず、親と子との関係性は、非常に歪な形でしか描かれてきてはいませんでした。
しかし、本作では、親が子を育てるということや、親が命をかけて子を守るということ、そして、子が親を超えていくということを、たった2時間30分あまりの中で余す所なく、かつ、ストレートに描き切っていました。
それすなわち、人の一生そのもの=親子の全てが描かれているわけです。
歪な親子の物語は、最後の最後で、美しい命の物語へと昇華されました。
そして、だからこそ私は、本作を観て、「Qから8年かけてくれてありがとう……」と思わざるを得ませんでした。
なぜなら、私はその8年の間に、結婚し、子が生まれるという経験を経ることができたからです。
一人の親として観る本作は、非常に感動的でした……!
大人が子供に希望を託し、責任を負うということ
思えば、今までのエヴァは、【大人が子供に重責を押し付ける物語】でした。
いくら万全のバックアップ体制を整えていても、前線に立つのは14歳の子供達でしたし、例えスタッフ全員が自爆する覚悟で働いているといっても、それは、見方を変えれば、【「君達が失敗したら、私ら全員死ぬから」という重圧】ともいえます。
これはまぁ、数々の問題を先の世代へと先送りにしている日本人のメタファーと考えることもできますし、実際、そういう面はあったのでしょう。
しかし本作では(と言いつつ、実は『Q』からそうだったということが本作を観ると分かるのですが)、ヴンダーやエヴァを駆り、最前線に立つのは大人達であり、最後の最後まで、14歳の少年たるシンジを頼ることはありませんでした(アスカ、マリに関してはQの時点で既に28歳という大人なため、少年少女にはカウントしません)。
しかし、大人達ではどうすることもできないところまで事態が進展した時、自らの意思を持って、シンジが立ち上がり、自ら「僕を初号機へ乗せてください」と言うのです。
この時シンジは、初めて、誰に言われたわけでも、何かの重圧を感じていたわけでもなく、ただただ純粋に、自分にしかできないことがあり、そして自分はそれをしなければならないということを自覚して、エヴァに乗るという選択をするのです。
そして、大人たるミサトは、シンジがエヴァへ乗ることを許可します。
それはもう、今までのような重責の押し付けではありません。
のみならず、ミサトは、「彼を保護する者として、彼の行うことの全責任は、私が負います」とさえ言ってのけるのです。
子供へ希望を託し、その責任は大人が負う。
これは、我々大人が子供にしてあげられることの中で、最も尊いことだと思います。
私も、そういう大人でありたい。
そう思える名シーンでした……!
真の主人公はゲンドウだった
TV版、漫画版通して、この視点はあるにはあった(ゲンドウだけが物語の全てを知っていますし、何なら、エヴァで起きたことは、そのほぼ全てがゲンドウの目的のために行われてきたものでしたからね)と思うのですが、本作では、もう真正面から、碇ゲンドウが主人公の物語でしたね。
他者との関わりを断ち、音楽と知識だけに安らぎを求めて生きてきた一人の男が、そのちっぽけな世界を打ち壊すような奇跡的出会いをし、人並みに人を愛し、そして、悲劇の果てに喪失する。
普通ならそれで終わってしまうところなのですが、しかし、ゲンドウは諦めなかった。諦められなかった。
例え世界を、我が子を犠牲にしようとも、どうしても、どうしてももう一度、彼女に出会いたかった。
そして、【運悪く】そのための術を知り、そのための道具を手に入れてしまった。
だからこそ、このエヴァという物語は始まってしまったわけです。
そう、エヴァという物語の本筋は、人類補完計画でも、シンジの成長でもなく、【ゲンドウの悲恋】なのです。
ゲンドウの、世界全てを巻き込んだ、狂気にして究極の純愛を、その息子、シンジの目線で体験したのが、エヴァという物語なのです。
そして、そんな純愛の物語は、本作においてついにゲンドウの視点から描かれ、そして、シンジによって成就します。
ゲンドウがやったことは、絶対に許されることではありませんが、しかし、【世界を敵に回しても、世界の全てを犠牲にしてでも取り戻したい人がいた】ということは、素直に、素敵なことではないでしょうか。
そこまで純粋に人を愛することができたゲンドウは、きっと、誰よりも純粋で、そして、幸せな人間だったのだと思います。
ちなみに、この視点に立ってみると、新劇場版において宇多田ヒカルさんが手掛けた主題歌(『Beautiful World』『桜流し』『One Last Kiss』)の歌詞の意味や視点も、違った響きを持って感じられるようになります。
宇多田さんが、物語についてどこまで知った上でこれらの曲を書かれたのか、あるいは、宇多田さんなりにエヴァという作品の本質を見抜いて書かれたのかは分かりませんが、いずれにせよ、とんでもなく素晴らしい主題歌ですね。
あるいは、当時は最高のグッドエンドとも思えた『破』のラストシークエンスも、本作を経由すると、「シンジの選択は、結局ゲンドウと同じ(世界の全てを犠牲にしても、綾波を助け出すという選択)」であるということが分かり、だからこそ、シンジは幸せになれなかったということも分かります。
エヴァの呪縛を解くということ
最後に、本作がやらなければならなかった一番の大仕事であり、そして、見事にそれを成し遂げたということについて語っていきます。
それは、【エヴァの呪縛を解く】ということ。
これはもちろん、『Q』で明かされた、【エヴァパイロット達が背負う呪縛】という意味もありますが、もっとメタ的な視点として、【我々ファンをエヴァの呪縛から解放する】という意味でもあります。
我々、エヴァファンの多くが、エヴァという作品で提示される数多くの謎や、難解な物語の意味や伏線を紐解くというような呪縛に縛られているというのは、もはや語るまでもないことかと思います。
本作は、もちろん新たな謎を提示した部分もありますが、しかし、それ以上に、【すべてのエヴァンゲリオンは、ここへ行き着く】という一つの道筋をしっかり立てたことで、我々のエヴァに対する見方を更新してみせたのです。
数多くの謎は未だ残されていますが、しかし、『シンエヴァ』を観た現在、そんなことは、最早どうでもいいことなのです(もちろん、異論は認めます)。
一度は、あの悲惨にして難解な終わりを描いたエヴァが、これ以上ないほどに綺麗に、しかも、爽やかに幕を閉じた。
それによって、物語世界からも我々の頭の中からもエヴァは消え失せ、代わりに、ありきたりな日常が目の前に広がっているということを改めて自覚させられたのです。
しかし、エヴァが消えたからといって、それは、エヴァが無かったということではありません。
物語世界がエヴァ世界を経由して、日常世界を取り戻したように、我々もまた、エヴァ世界を系して、日常に戻ってきたのです。
その経験、その記憶はなくなったりはしない。
けれど、シンジ達も我々も、もう、エヴァに縛られなくていいのです。
物語世界内の【エヴァの呪縛】を解くと同時に、我々の【エヴァの呪縛】をも解いてしまう。
26年間も人々を振り回した挙句、そこからしっかりと解放し、なんなら、最後には素敵な花束まで持たせてもらったような、そんな離れ業をやってのけた作品、他にあるでしょうか(笑)
私はもう、それだけで満足ですし、これ以降、何度エヴァを見返そうと、『旧劇』や『Q』で絶望の淵に立たされようと、「でも、最後にはハッピーエンドが待ってるんだよな」という軽やかな気持ちでエヴァに触れることができます。
こうして終わってみると、ホントにホントに、感謝しかない26年間だったなぁ……。
少なくとも私は、『エヴァンゲリオン』という最高の作品に出会えて嬉しかったですし、今後も、ずっとずっと死ぬまで大好きな作品であることは変わらないと思います。
私の他にも、そんな人がたくさんいれば、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』は、大大大成功の作品だったと言えるんじゃないでしょうか?(笑)
改めまして、ありがとう、エヴァンゲリオン!!!